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Sea Life Story's vol.25

ゴールドコーストからはじまった、おいしいパン屋さんの話。

PANYA 店主
寺尾信行さん
ゴールドコーストからはじまった、おいしいパン屋さんの話。

パンというのは、不思議な食べ物だ。
「おいしいパン」という響きだけで、
そこには人を笑顔にしたり、
ワクワクさせる何かがある。
「素敵なパン屋」と聞けばなおさらで、
なんだかキラキラした気持ちになるし、
つい足を運んでみたくなる。

これは、昨年オープンした、
笑顔の絶えない、とあるパン屋さんの話。

Episode.1 しあわせな風景のあるパン屋のルーツ
Episode.2 ないのなら、つくればいい

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どこにでもある、馴染みの深い日本家屋。まるで知らない人の家へ訪れたときのように、恐るおそるその玄関の引き戸を開けると、外観からは想像もつかない、ふわっと芳醇なベーカリーならではの香りが漂ってきて、一瞬でしあわせな気持ちになった―。

「こんにちは、いらっしゃいませ」。声のするほうに目を向ければ、アクリル越しにゴツゴツとした大きなパンがずらりと並んでいる。ちょうど先客のご婦人がいて、どれにしようかしらと迷いつつも楽しそうなお買い物タイムの真っただ中。カウンター越しに店の奥さんがやさしい声で、親戚のおばちゃんに接するときのような親しげなトーンで、一つひとつ丁寧にパンの説明をしている。厨房の奥から店のご主人がぬっと顔を出し、「いらっしゃい、この間はどうも」と柔和に挨拶。ご婦人が何事かをつぶやき、場に笑いが起きる。心が和む、温かい風景。そのまま談笑していると、今度は後ろから別のご婦人がやってきて、あら、こんにちは、と先客に声をかけ、それぞれにまた挨拶を交わし、世間話がはじまる。

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今回訪れた〈PANYA〉というストレートな店名のパン屋は、その名のとおり気取ったところがなく、思わずファンになりたくなる、ゆるくて心地よい空気に満ちていた。もちろんそれが、人を笑顔にするおいしいパンありきだということは、うれしそうに買ったパンを抱えるご婦人たちからも伝わってきた。

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Episode.1 しあわせな風景のあるパン屋のルーツ

「ゴールドコーストにいたんですよ。オーストラリアの。そこで1年ぐらい、パンづくりの修行をしました」

話を伺おうと立ち入らせてもらった厨房で、店主の寺尾ノブユキさんはそう教えてくれた。生まれは埼玉。以前は横浜の赤レンガ倉庫やみなとみらいの界隈で、料理人として働いていたらしい。レストラン、カレー専門店、パスタの店。いくつかの飲食店で腕を磨いた後、縁があって静岡県御前崎市の〈パシフィックカフェ〉に料理人として移住したのだという。しばらくするとそのときの彼女(現在の奥さん)がオーストラリアへ行くというので、それならと二人して渡豪。いずれは洋風の居酒屋でもと、ぼんやり将来のビジョンを描いていた寺尾さんは、海外の料理を学べるいい機会だと考えていたようだ。

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「そしたら現地でパン屋の募集を見つけて。以前から飲食店もいいけどパン屋もいいなと思っていたので、やってみることにしたんです」

そうして入店したのが〈PANYA ARTISAN BAKERY〉。直訳すると「パン屋職人のパン屋」。オーナーは日本人にもかかわらず、ゴールドコーストのあらゆるレストランやカフェにパンを卸している、卸売専門のパン屋だった。そう、寺尾さんの店の名も、修行先からとったもの。理由を聞くと「だって、店の名前決めるのって、めんどくないですか?」と笑った。名前ではなく、味で選んでほしいということなのだろう。

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PANYAの看板商品は「サワードウ」と呼ばれるハードパンだ。日本の一般的なパンとはちがい、イースト菌ではなく、天然酵母(この酵母自体もサワードウという)で発酵させてつくる、すこし酸味の利いた、けれど決して主張しすぎない、味わい深い素朴な奥行きがあるパンだ。彼の修行したオーストラリアはもちろん、ヨーロッパ諸国、アメリカなどでも、日本人がお米を食べるがごとく毎日のように食されている。料理やワインとの相性がよく、たとえばサンフランシスコでは、アサリをジャガイモや牛乳と一緒にじっくり煮込んだクラムチャウダーを、なかをくりぬいたサワードウの器に淹れて食べる名物料理などがある。

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「こだわりは、やっぱり天然酵母ですね。生き物ですから、毎日手入れしないと死んじゃうんです。何もしなければ、水だけになる。これを朝、必要な量だけ小麦を足して、培養させるんですよ。酵母もつかっていいときと悪いときがあって、朝にちょうどいいタイミングになるように持って来る。朝はもっとブクブクして、スパークリングな感じになってますよ。

実をいうとこれ、オーストラリアに行ってパン屋で働く前から育ててるんですよ。3年ぐらいかな。それから毎日いじくってます。だから無意識に、パン屋をやる流れになっていたんでしょうね(笑)」

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サワードウは、その土地の気温や湿度などの環境によっても、菌数など状態が変化するという。つまり、おなじサワードウをつかっても、そのパンの持つ味は土地ならではのものになる。必然的に、酵母がちがえば同じレシピのサワードウでも、まったくちがうものができあがるということ。御前崎のPANAYAの味は、御前崎のPANYAでしか食べられないのだ。

「ベーシックなサワードウをオリーブオイルで焼いて、アボカドを乗せてレモン汁をたっぷりかけると、シンプルだけど最高においしいですよ」。と寺尾さん。そのオススメを特別につくってくれた。

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これがなんともいえず、美味。噛むほどに味がある素朴なサワードウに、とろりとしたアボカドが絡んで、レモンが全体をスッキリとまとめてくれる。こんな朝食が出てきたら、一日のはじまりをハッピーな気持ちで過ごせるだろう。

PANYAではサワードウだけでなく、食パンやその他のパンもいくつか売られている

PANYAではサワードウだけでなく、食パンやその他のパンもいくつか売られている

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Episode.2 ないのなら、つくればいい

ごちそうになったところで、寺尾さんの奥さんにお店のラインナップを紹介してもらった。

「メインのサワードウは5種類ほどあります。まず、天然酵母と全粒粉だけでつくったベーシックなもの。レーズンとクランベリーと山ぶどうのドライフルーツに、ナチュラルスパイスを調合したもの。ワインにもすごく合いますよ。生ハムと合わせてもすっごくおいしいって、お客さんが教えてくれました。こっちがチアシードと白ゴマとヒマワリの種が練り込んであるものですね。すごく香ばしい香りがします。それから、いちじく、クランベリー、クルミとスパイス入りのもの。けっこう歯ごたえがあるのが好きな方が多いみたいで、クルミ入りは人気ですね。甘さはドライフルーツのものよりはひかえめかな。最後がゴーダチーズを生地に練り込んだもので、ゴーダチーズ自体に塩気があるので、これになれると、ふつうのトースト用のチーズは、なんか物足りないなぁってなる(笑)。凄く食べやすいんですよ。切って焼くだけでおいしいし」

聞いているそばから、すべて買って帰りたくなる。先客のご婦人が迷われていた気持ちが、よくわかった。

店内のだだっぴろい畳間は「ほとんど特に何も使ってないんです。フリースペース」といいつつも、きちんと花が活けられている

店内のだだっぴろい畳間は「ほとんど特に何も使ってないんです。フリースペース」といいつつも、きちんと花が活けられている

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オーストラリアからの帰国後、もう都会では働きたくないと考えた寺尾さんは、渡豪前に住んでいた御前崎にこの店をオープンさせた。昨年10月のことだ。しかし開店前は「あんな田舎で、ハードパンなんて絶対に売れないからやめとけ」と、友人たちから言われたのだという。

「向こうでサワードウに出逢って、僕も妻も最初はハードパンなんて、って敬遠してたんですけど、食べたらむちゃくちゃ美味しくて。で、日本に帰ってきたら、売ってないじゃないですか。食べたいけれど、ない。じゃあ、つくろうって(笑)。勝算があったわけじゃないんですけどね。ただ、おいしいパンをつくればきっと、いろんな人が買いに来てくれるだろうなーと。最初は修行先と同じ卸売専門で考えていたんですけどね。カウンターをつくったら、なんとなく商品を並べたくなって。並べてみたら、それなりにお客さんが来てくれて。じゃあ、このままでいいや、って(笑)。卸売りは、すこしずつやっていければと思っています。今後の目標ですか?もっとハードパンのよさを広めたい、ですかね」

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オープンしていちばん最初のお客さんは、家を貸してくれた大家さんの知り合いだったそうだ。そこから地元の人たちに「一度食べたら、普通の食パンじゃ物足りなくなっちゃって……」と、口コミで広まり、いまでは常連客が頻繁に出入りする店になった。寺尾さん夫婦のゆるく、力まないスタイルが、このまちの人々に受け入れられてきたのだろう。

おいしいサワードウとともに。

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写真:朝野耕史 編集・文:志馬唯