御前埼灯台の半生を見守る、現代の灯台守たち
齋藤 正敏さん

灯台守とは
文字通り、灯台を守る人のこと。
海の道しるべである灯台を
維持・管理するための職業で、
かつての日本においても
住み込みでその責務を負う職員が各地にいた。
その歴史の幕引きは2006年。
長崎県の女島灯台が無人化されると、
国内から灯台守はいなくなった。
しかし、岬に灯台のある光景は
他の何にも代えがたく、
世界共通で郷土のシンボルである。
だから灯台守がいなくなった今も
その風情を守ろうとする人たちがいる。
彼らに話を聞きたくて、
静岡県の最南端の岬に立つ、御前埼灯台を訪ねた。
125年目までのこと
シャッター式の雨戸を開けるその様は、まるで映画のワンシーンのようだった。軋む音。射す光。轟く海。さっきまで薄暗かった部屋が一瞬で明るくなる。スタンバイはOK。物語を始めよう。そういわんばかりに、アンティークめいた展示品たちが、にわかに艶を帯びる。
「では、何からお話しすればいいですか?」
御前埼灯台に併設された、今では資料館となっている旧官舎の一室。パイプ椅子に腰を落ち着けてから、照れたように、はにかみながら、齋藤正敏さんは言った。〈御前埼灯台を守る会〉の会長で、生まれも育ちも御前崎市白羽地区。御年73歳。生誕147年目を迎える御前埼灯台とは、同郷の先輩後輩といったところか。年齢もおおよそ半分くらい。齋藤さんの灯台への思いは、単なる郷土愛の枠を超えている気がする。まさに、親しい先輩に対する誇らしさと憧憬に近いのではないだろうか。何しろもう半世紀ほど、この白亜の塔に関わってきたのだから。
「私と灯台が関わり出したのは……」
切り出したその言葉で、時が遡る。地元の高校を卒業したばかりだった昭和42(1967)年の齋藤青年は、当時の御前崎町役場へ就職。すぐに広報紙の担当を任されたという。
「仕事で地元のことを調べるでしょ。そうするとやはり、御前崎といえば灯台なわけ。いろんな人に灯台にまつわる話を聞きました。そうこうしているうちに自然と愛着がね、湧いてくるんですよ」
時代は高度経済成長期の終盤。東海道新幹線の開業、名神・東名高速道路の開通、マイカーが大衆化し、旅行ブームが加速。世の流れに則って、御前崎でも国民宿舎や民宿が立て続けにオープンし、これから観光でまちを盛り上げていこうという機運が高まっていた。
そんな時代背景のなか、市の広報紙を担当する齋藤さんが、このまちのランドマークである灯台のことをどれほど調べ、深く関わることになったかは、想像に難くない。
月日は流れ、1974年には御前埼灯台100周年の記念祭が催された。まだ20代だった齋藤青年が、自らが仕事で関わるそのシンボルを誇りに感じるようになるのは、自然の成り行きだろう。
「僕はね、御前埼灯台の魅力を伝えたいという思いもあるけど、その根底には、この灯台を未来へ残していきたいという思いがあるんです。平成11(1999)年には、この御前埼灯台でも灯台守が廃止されましてね。そこで歴史はいったん幕を閉じました」
それは明治政府より命を受け、国内26か所の灯台建築に携わった「日本の灯台の父」と称されるイギリス人技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンがこの岬に灯台を建設してから、125年目という節目の年だった。
実を結んだ努力を、未来へ
現役の灯台守がいなくなったのを機に、齋藤さんは地元の有志ら約30名とともに“御前埼灯台を考える会”を結成。故郷のシンボルである灯台を後世に残していくため、灯台の勉強会や資料展示など、ボランティアによる活動がスタートした。
「この御前埼灯台ならではの魅力と言ったらね、“安定感”だと僕は思います。真っ白な塔だけじゃなく、官舎が一体となっている、ずっしりとした構えがイイ。灯台守がいなくなって、実質この官舎は不要になったんだけど、何とか活用しようと管理している海上保安庁にお願いして、灯台にまつわる展示やイベントをさせてもらっていたんです」
当時の最新技術が施されているとはいえ、築100年超の建造物にガタが来ないはずはない。雨漏りがしたり、台風で屋根が破損したり、放っておいても老朽は進むばかりだった。「それで問い合わせたら当時はね、『この建物はもう不要になったから、維持にお金(税金)はかけられません』って言われたわけ」。そして2006年、もっと灯台の重要性を官民ともに訴えていく必要があると感じた齋藤さんたちは、「御前埼灯台を守る会」を発足させる。

旧官舎に展示されている、全国の灯台模型
守る会の活動は、地道なものだった。
「広報をやっていたおかげで、郷土史家や写真愛好家なんかと知り合いましてね、資料や写真は借りてこられたんです。それを旧官舎に展示して。あとは勉強会を開いたり、小中学校で子どもたちに灯台と郷土の歴史を話したりしました」
最初は年に3回、ゴールデンウィークと海の日と灯台記念日(11月1日)に、管轄の海上保安庁へ使用許可を提出して、手作りの臨時資料館がつくられた。それがだんだん会員数も増え、展示資料も増え、やがて毎週日曜に開催されるようになっていった。

現在の灯台の前身、江戸時代に御前崎に設置された「見尾火灯明堂」の再現模型
資料館を見回す。江戸時代まで遡った年表、灯台にまつわる出来事の取りまとめ、御前崎の海にとっていかに灯台が必要であったかの考察、灯台の構造・歴史的価値、過去の書物、写真、灯台の部品など、多種多様な展示物にボランティア団体だけで「よくここまで調べ上げたものだ」と感嘆する。
その地道な活動と功績が讃えられ、2016年には清水海上保安部長から、2020年には第三管区海上保安本部長から、2021年には海上保安庁長官から、御前埼灯台を守る会にそれぞれ感謝状が贈られている。
それ以外にも、近年の御前埼灯台は明るいニュースが続いている。2016年には、レンガを内と外の2重に積み上げた「二重円筒構造」という構造であることが判明。これは、前述のリチャード・ヘンリー・ブラントンが手掛けた灯台においても3基しかなく、しかもそれまで1枚壁だと思われていた御前埼灯台が最初に建てられていた二重円筒構造であると判明したため、歴史的な発見となった。同年の改修工事の際に、その構造と、イギリス積みと呼ばれるレンガの積み方が見える窓が設置され、見どころの一つとなっている。2019年には市の観光協会が海上保安庁より旧官舎の一室の使用許可を得て、正式に守る会が灯台資料館を運営することに。それとほぼ同じタイミングで、市が敷地の一部を買い上げ、灯台周辺に綺麗な公園が整備された。
そして何よりの吉報は、今年(2021年)、御前埼灯台が国の重要文化財に指定されたこと。その報せが届いたとき、齋藤さんたちはどれほど歓喜しただろうか。
「ずっとやってきたことが、ようやく実を結んだ気がしました。これでやっと、国も行政も市民も、御前埼灯台の重要性を再認識して、保存する方向に向かってくれるだろうなと」
喜びを堪えるようにつぶやき、優しく微笑んだその口元には、達成感と安堵が確かに滲み出ているような気がした。
灯台のみならず、ランドマークは勝手にそこに存在し続けられるわけではない。齋藤さんたちのように時間と労力を惜しまず陰で支える人々がいてこそ、古里の郷愁を、旅人の感動を、あざやかな思い出を、私たちに与えてくれる。