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Sea Life Story's vol.23

ふるさとを遠くはなれて生きる居酒屋店主の物語

情熱御前崎酒場「ありがとう」店主
岸和田光弘さん
ふるさとを遠くはなれて生きる居酒屋店主の物語

これは、
あまりにも海が好きで、
波に乗りたいために移住し、
そこで人生の大切なものをみつけた、
とある居酒屋店主の物語。

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“言葉にあふれる店”は、
いかにして誕生したのか

夏の暑い日だった。滋賀県の片隅のとある田舎町。ブーン、ブーンとリズミカルに鳴く扇風機のかたわらで、その少年は大学受験のため机にかじりついていた。世はまだバブルの真っただなか。気晴らしにラジオを付けると、好景気に沸く世間の浮かれたニュースが流れてくる。調子のいいDJが、琵琶湖でウィンドサーフィンがブームだと告げた。おもわずラジオに向かって八つ当たりする。

「いいなぁ、こっちは汗だくで勉強してるってのに、ウィンドサーフィンかよ。 大学に行ったら、オレも海で遊びまくってやる!」

それがどこまで本気だったのかわからないが、ともあれ少年は海のある横浜の大学に晴れて進学した。若者らしくファッション誌を読み漁り、お洒落な生活に憧れて、マリンスポーツに没頭しまくった。挙句、青春は謳歌するものといわんばかりに、1年間の休学届けを出し、夏から秋はハワイ、冬は御前崎という、ウィンドサーフィンにおける世界と日本のメッカに入り浸る。それでも無事に卒業すると、化粧品メーカーに就職したが、希望したのは静岡支店。理由はもちろん、御前崎が近いから、だった。

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「それから気が付いたら20数年経って、いまはこうして店を構えさせてもらっています」

若かりし日々を振り返りながら、岸和田光弘さんはそう言った。御前崎市役所の目と鼻の先で〈御前崎情熱酒場『ありがとう』〉という居酒屋を営んで、もう11年になる。新鮮な魚介類を中心に、ブランド牛や軍鶏など、地産の海と山の幸が堪能できる、立地的に、市内で知らない人はいない、他県からもよく人が訪れる人気店だ。

「店をはじめたのは、学生時代にBarでアルバイトして、その楽しさを知ったのがきっかけですかね。もともと、料理は子どものころから好きで、よくやってましたし」

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化粧品メーカーに4年勤めたあと、20代だった岸和田さんは独立しようと御前崎に移住し、店を構えた。人口2万人強(当時)のまちで新参者が商売をするのがどういうことかなど、細かいことは何も考えず「そのころには知り合いもすこしはいたし、まあ何とかなるだろうと。それよりすぐそばに海があるなんて、最高だなと思って」迷わず移住したという。

自由奔放、順風満帆に見える岸和田さんの人生だが、すべてがトントン拍子に進んできたわけでもない。脱サラ後に2年ほど飲食店で修業し、最初にオープンしたのはバリ風のダイニングバー。飲食店は一種の娯楽。料理と雰囲気の両方で、お客さんをもてなしたいという岸和田さんの気持ちを体現した店だった。

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そこで、一度目の危機が訪れる。

「最初はお客さんがたくさん来てくれましたが、だんだんと減ってきて、どうしていいかわからず、ただただ困っていた時期もありました」

都会で培ったセンスで体現した1店舗目は好スタートを切った。しかし、バブル後の時代背景もあり、遠方からの客足は月日とともに遠のいていったという。初めて体験する、経営の難しさ。先の見えない不安。そんなとき、岸和田さんの心を救ったのは、いつでも変わらず応援してくれた地元のお客さんたちだった。よそから来た、調理経験もすくない若者の店なのに、このまちの人たちは温かい目で育ててくれた。そうして、岸和田さんの胸に去来した地元の人たちへの感謝の気持ちをカタチにしたのが、2店舗目の屋号〈ありがとう〉なのだという。

そのストレートすぎる店名を裏打ちするように、店内には彼(と店のスタッフ)直筆の、感謝の意を表す詞や、どこまでもポジティブな名言など、たくさんの“言葉”が壁のいたるところに貼ってある。

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2020年という岐路に立って。
これまでのこと。これからのこと。

そして2度目の危機は、唐突に訪れた。
まちから、人が、消える。そんなファンタジーめいた形容すら、大げさではないだろう。そう、2020年、コロナ禍と呼ばれる、世界的な感染症の流行だ。既知の通り、あらゆる業種が自粛を余儀なくされ、飲食店、特にアルコールを提供する店は商いの術を絶たれたといってもいい。当然、岸和田さんの店も。

「あっという間でしたよね。ホントに。どこのお店もおなじでしょうけど、いままでこんなことなかった。当たり前だと思っていた光景が、土台から崩れてしまって。ピークのときは、社会全体に“居酒屋を開けることは悪だ”という雰囲気すらあって。自分がこれまで胸を張って、一生の仕事としてやってきたことが、根本から否定されるかのような風潮は、なによりつらかったですね……」

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スタッフの賃金、家賃などの固定費。日本中の企業が瀕したケースだが、何もしなくても月に数百万は消えていく。例にならい、テイクアウト販売をはじめたが、到底追いつくはずもない。先行きの見えない絶望的な状況のなかで、岸和田さんが選んだのは、それでも前を向くことだった。

「最初はホントに落ち込んでいました。けれど、全国の飲食店の情報を集めると、この状況を打開しようといろんな取り組みが出てきていると知りました。さらにそれを冷静に見ていると、ぼくらみたいな地方の飲食店の人が『こんなときだからこそ、すこしでもできることをしよう』って起ち上がっている例が周りに勇気を与えていて、ぼく自身も、いまこそ地域に恩返しするときだと、勇気をもらいましたね」

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全国の小中高がまだ休校していた5月。「お母さんたちの負担をすこしでも軽くしたり、自粛している子どもたちにしてあげられることはないか」と考えた岸和田さんは、知り合いの生産者に声をかけ、たくさん採れて余った食材も含め、地元の安心安全な食材を協賛してもらい、子どもたちに弁当やカレー、パスタなどを無料で提供した。さらにその噂を聞きつけた市役所から「何かできないか」と声をかけられ、複数の飲食店が集い、日替わりで各店のメニューを弁当にして市役所脇の広場で販売する「御前崎波乗り青空食堂」を企画した。

2店舗ずつ日替わりのスタイルで、最終的に7店舗が参加。感染拡大防止に留意しながらも、多いときは50、60人ほどの人が並んだという。

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「自粛自粛でストレスがずっと溜まってた時期に、外のいい天気のもと、お弁当を選んで買えるというのが、お客さんも店側もすごい楽しくって。世の中がこんな暗い時期でも、まちの人の役に立ててるっていうのが実感できたというか。大変だったけど、出店者も『たのしかった、やってよかった』って言ってくれたのが、ものすごくうれしかったですね」

そしてそれまでは意外に関係の薄かった地域の若い同業者との強いつながりができたことが大きな収穫ですと、岸和田さんはうれしそうに語ってくれた。このつながりを、次世代につなげていくのが目標だと。

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「コロナで商売は大変になったし、東京とか大阪とかも気軽に行けなくなった。だけど、暮らしはすごく充実してるんですよね。ちょうど冬から春へ、春から夏へと、いい季節と重なったこともあるんでしょうけど、この御前崎でふつうに生活してると、テレビで見ている重苦しい空気がウソのように、ホントはそんな心配なんて全然ないんじゃないの? って錯覚してしまうようなおだやかな景色、すばらしい海、山が身近にたくさんあって。改めていいところに住んでるな、このまちにきてよかったなって感じました。今回のことで、ふつうに暮らせることのよろこびを皆さんも感じられたと思いますが、やっぱりそういう“ふつうのこと”に感謝の気持ちを忘れないことが大切だなと、ぼくも改めて感じました。そこに気付かせてくれたという意味では、いい機会をもらったのだと思っています。ウチの店名に込めた思い――ありがとう――の気持ちを忘れず、これからもやっていきたいですね」

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原点回帰。世間を脅かす危機的状況だからこそ、岸和田さんはそこに立ち返る。これからを生きていくために、ひたすら前を向きながら。

「もともとウィンドサーフィンと海が好きという理由だけで移住してきましたが、目の前のことを一生懸命こなしているうちに、あっという間にこの歳になっていた。大学生だったころに憧れたような、お洒落なライフスタイルとはちょっとちがうけど(笑)、自分が選んで移り住んだ大好きなこのまちで、自分が選んだ商売をできていることを、誇りに思います」

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写真:朝野耕史 編集・文:志馬唯