Time To Say Goodbye?最後の職人が語る「手火山式かつお節」の物語
吉村孫俊さん

「手火山式」(てびやましき)という
いまはもう途絶えつつある希少な製法で
かつお節をつくり続けている職人がいる。
彼はいったいどんな思いで
昔ながらの手仕事をつづけているのか。
その歴史と、未来を尋ねに
ちいさな工場へ向かった。
Episodes
1. かつおで賑わったころ
天井の梁が、真っ黒にすすけている。
白いトタンの壁から、午後の光が射しこんでいる。
テニスコートよりすこし大きいくらいの作業場は、果てしのない静寂に包まれていた。
「むかしは30人とか40人くらい、この狭い倉庫で働いてたんだよ」。
その言葉に、かつての情景を思い描いてみる。
立ち上る煙。
燻したカツオの薫り。
慌ただしく動き回る女性たち。
汗と煤(すす)にまみれた、職人たちの身体。
「もう、暑くって、煙くって。それでも、賑わってはいたなぁ……」。
1. かつおで賑わったころ
シュッ、シュッ、シュッ……。かつお節を削る音と小気味よいリズムが、日本の台所からほとんど聞こえなくなって久しい。高級な枯節を削る前は布巾で表面のカビを拭き取るとか、木槌で削り器をカンカン叩いて刃のでっぱりを調整するとか、シッポ側から削ると粉になるから必ずアタマ側から削らなければいけないとか、かつてはどんな家庭でも知っていたはずのかつお節削りのセオリーも、一般常識とは言い難くなってしまった。そもそもかつお節が削るものだと知らない子どもがいたって、おかしくないくらいに。
削る人がすくなくなれば、かつお節(※削ったものは削り節)がすくなくなるのは必然。とはいえ市販の削り節や“だしパック”があるから需要は安定しているし、かつお節そのものがなくなるなんて想像もできない。けれど、事態はそうイージーでもなさそうだ。
―昔ながらの手仕事による、伝統の消失―。
それがいま、御前崎でも起ころうとしている。かつおの漁獲量日本一を誇る静岡県のなかでも、特にかつおの産地として名高い、このまちで。
「こうやって“せいろ”にかつおを並べて、窯の直火で燻すのを『手火山』って言うですがね」
吉村孫俊さんは、御前崎に2人しかいなくなってしまった伝統製法「手火山式かつお節」をつくる職人だ。江戸初期に、それまでの培乾(燻して乾燥させる)技術が改良され確立されたこの製法は、大人1人が入れるほどの炉にかつおを入れて、直火で乾燥させては休ませる工程を数か月繰り返し、カビをつけてさらに熟成させる。手間がかかる上に、丁寧さと高度な技術が求められるが、1970年代まで、つまり300数十年間ほど、かつお節といえば手火山式が主流だった。しかし部屋を丸ごと乾燥機にした「焼津式」や、建物全体を乾燥機にした「急造庫(きゅうぞっこ)」が台頭しはじめると徐々に衰退し、いまでは全国で数件を数えるまでに。オートメーションに近い状態で大量生産できれば、その方がいいに決まっている。吉村さんも伝統製法は残しつつ、生計を立てるために焼津式を取り入れていた。
「ただ、味でいったら、やっぱり手火山の方がおいしい。だけんが、腕のちがいがはっきり出る。マニュアルじゃなくて、職人の経験と勘でモノの状態を見ながらつくるわけだから」
最盛期には、御前崎にもかつお節の工場が20~30軒ほどあったという。「魚の買い付けもそうだし、身を捌く人、燻して乾燥させる人、削る人って、工程ごとに専門の職人がいてね、その人たちの技術にはゼッタイかなわない。ウチにも多いときゃ30人くらい働いてたの。それで1日に5、6トンは出来たわけ。鹿児島(※かつお節生産量全国1位)からも“渡りの職人”が何人か来たりしてね。住み込みで弟子入りする人もいたし。あの時代は、やりゃやっただけ売れただよ」
それもいまは昔になってしまった。御前崎にいるもう1人の職人さんは90歳前後らしく、吉村さんともども、年に数回、気が向いたとき、かつおが安く手に入ったときに、ごく少量だけしかつくらなくなったという。「息子が料理屋をやっていて、そこで使ってるのを食べて『おいしい』って言ってくれる人がいるから、お店で出すためにつくったり。どうしても昔ながらのかつお節がほしいって人が年に4、5人くらい電話かけてきてくれるから、細々と続けてるんです」。

手火山式でつくった吉村さんのかつお節や御前崎の名物「なまり節」は、いまはまだ市内の〈なぶら市場〉や、吉村さんの息子さんが営む〈厨(くりや)〉などで購入できる。
実は10数年前に、吉村さんを含む御前崎の職人たちは自ら伝統を守ろうと「NPO法人 手火山」を起ち上げた。国外との交流を図ったり、楽団とイベントを催したり、大学教授のバックアップで製法や御前崎の職人たちの声、かつお節の歴史などをまとめた本『カツオでにぎわったころ』と『手火山』を発行するなど、勢力的に活動した。しかし、1人、また1人と職人たちは引退していき、3年前にNPO法人は解散。それは決して若い世代につながらなかったのだけが理由ではない。
「息子にも継がそうなんて気はなかった。時代で売れなくなってきたし、いくらいいものをつくったって、それ相応の値で買ってくれる人はすくないワケ。朝早くから起きて、晩遅くまでかかるけど、一生懸命手間ぁかけたって、それだけの儲けにならない。大変なんダニ(笑)」
高度経済成長がもたらした豊かさの裏側。そこにはもちろん良し悪しもあれば、一括りにして「こうすればよかった」と答えを出せるほど、単純な問題でもない。ただ、かつお節に限らず、どのジャンルにおいても手仕事の伝統が失われつつあるのは、いまを生きる私たちがその道を選択したからにほかならないのだろう。
最後に、もし技術を教えてほしいという人が現れたら、伝承する気はありますかと尋ねると、一呼吸おいてからこんな答えが返ってきた。
「……そう思って、がんばった時期もあるけどね。もう、弟子をとるつもりもないんです。私らの代で、終わりでしょうね」
手火山の火が完全に消えてしまう前に、私たちにできることはあるだろうか。
幕を下ろす覚悟を決めた吉村さんの意志にはそぐわないかもしれないが、いまは1人でも多くの人がこの伝統を知り、未来へつながる何らかの手段を見つけてくれることを、願わずにはいられない。